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哲学は難しい…8

哲学と言う訳語について、以前のブログで云々しましたが、新たな知識を得たので書きます。
木田元の「反哲学入門」(新潮文庫)から抜粋します。

「日本最初の本格的な西洋哲学研究者だった西周は、江戸時代に『蕃所調所(ばんしょしらべしょ)』で日本最初の哲学の講義をしたときには、philosophyを『希哲学』と訳しています。」(39ー40頁)

これは、ソクラテスの哲学を理解した上で、「知を愛する」営みを、宋代の周敦頤(しゅうとんい)『通書』の「士希賢」(士は賢を希(ねが)う)と言う意味から、「賢」=「哲」として「希哲学」と翻訳した、と木田さんは説明しています(40頁)。

しかし、オランダ留学から帰国した西が、

「明治になってから執筆した『百一新論』では、その訳語からなぜか『希』の字が削られて『哲学』にされています。」(40頁)

となっています…。

但し、木田さんでは、哲学の「哲」の字義が、説明されていません…。

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旧統一教会と政治献金の問題について

旧統一教会について、世間が騒いでおります。
河のやとしては、信者と政治家が個人的な関係を結んでいても、別に興味はないのですが、旧統一教会の教義や信仰が、利益授受の関係で、政治的に何らかの影響を持っている場合は、問題かなあと思われます…。

が、日夜の報道を見て思うですが、旧統一教会からの政治献金の話が、全く出て来ないのが、不思議でなりません…。

まあ、現在のマスコミは事大主義を商業的に採用しているので、自社に不利益がある事に関しては、余程の事がない限り事実を隠蔽する事が常套手段でしょうから、仕方ない事なのでしょうが、その他の方面から、お金の話が出て来ないのが、不思議でなりません。

巨額な献金が問題になり、政治家との蜜月が話題となっている以上、現在の政治の世界では、通常、金銭的な関係が伴っていると考えるのが自然な気がします。
しかし、現在の所、その様な話は聞かれません…。

その様な事実がないから、という可能性もありますが、その様な事実があっても報道に上らない、という可能性も併存しています。
事実はどうなのかは、私では全く分かりませんが、発想としては、誰もが直ぐに抱く疑問なのかなあ、と言う気がするのですが、そんな話題すら耳にしません。

さて、事実はどうなんでしょうか…?
なお、事実と真実は、辞書的な意味で、明確な違いがあります。私が知りたいのは、矢張り、事実です…。

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鷲尾フランス語塾について

嘗(かつ)て、東京都豊島区の千早という地域に、鷲尾(わしお)フランス語塾という、自宅の一室でフランス語を教える塾がありました。
私が通っていたのは、今(2022年)から30年以上も前の頃ですが、南スズさんという、もう70歳以上になっていたでしょうか、白髪の、小柄な、好意的に「おばあちゃん」と表現出来る女性が、教えていました。

南スズさんは、生涯独身だったと思います。
また、当時お喋(しゃべ)りをした記憶の限りでは、日本女子大学で英文学の学士を取得、日本女子大卒業後は上智大学の大学院で英文学の修士(だった様な…)を取り、その後、何故かフランス語に進路変更し、早稲田大学の大学院でフランス語の修士を取っていました。
南スズさんはキリスト教者でしたが、上智大学の入学時には、宗派の違いで、中々入学が認められなかった、と語っていた様に記憶しています。
生まれが東京なのか、自宅がある千早なのかも、私は知りません(記憶していません)…。が、話す言葉に、地方色のあるアクセントが感じられなかったので、恐らくは東京、広く見ても東京圏の人だったと思われます。
ある時、金沢の石川県立図書館で、誰かの特別展覧会が開催されるとかで、同図書館から招待状が届いたそうなのですが、「何で私に?」と、その特別展の人とも金沢とも縁がない、と首を捻っていましたから、少なくとも石川県や北陸の人ではないでしょう…。

さて、鷲尾フランス語塾の名称ですが、南さんがフランス語を教えているのに、どうして「鷲尾」?となります。
勿論、私も「南さん」を、最初は「鷲尾さん」だと思っていました。併(しか)し、自宅の表札は「南スズ」と出ている…。
当初は余り深く考えませんでしたが、お喋りをして行くうちに、色々と分かって来ました。

私が鷲尾フランス語塾に通っていた頃、私は早稲田大学の学生で、入学当初から卒業論文にはレイモン・ラディゲについて書く事を決めていました。それで、「肉体の悪魔」等を、辞書と訳本を頼りに読んだり、ラディゲについての評論を読んだりしていました。
新潮文庫で出ている「肉体の悪魔」を翻訳した人が、新庄嘉章(しんじょう・よしあきら)さんです。新庄さんは早稲田大学のフランス文学の教授でした。で、南さんは、その新庄教授に、フランス語を教わっていた、らしいのです。

その辺の思い出話から、南さんの早稲田大時代の話になり、南さんの恩師とも言える教授には新庄さんの他、鷲尾猛(わしお・たけし)教授がいた、となりました。
鷲尾教授は早稲田の生徒等を集めて、フランス語の私塾を開いていたそうです。その生徒の中に、南さんもいたのだそうです。
南さんが千早の自宅に鷲尾フランス語を開いたのは、どの様な機会に、例えば南さんの卒業時なのか、鷲尾教授が亡くなった時なのか…等は、私の記憶にはありませんが、兎にも角にも、その鷲尾教授から、謂(い)わば暖簾分けの様な形で、フランス語の私塾を開いたので、その名称に「鷲尾」の名を冠した、と言う訳です。

鷲尾教授は、何冊かフランス語の教本を書いています。私が鷲尾フランス語塾に通った昭和の終わりから平成の最初頃には、もう絶版になっている教本もあったと思います。で、南さんが授業で使う教本も、もう絶版だった様で、発音の部分だけは、南さんが持っている本をコピーして教えてくれました。

鷲尾フランス語塾で教えるフランス語は、読み書き中心でした。会話は殆どしませんでした。これは、南さんのフランス語力の得手不得手もあったかとは思われます…。ですので、授業ではドーデ―、フロベール、メリメ等のフランスの小説を原書で読む事が専(もっぱ)らでした。時には、思い出した様にディクテ(ディクテーション=音読した言葉を書き取る作業)をさせられる事もありましたが…。

そんな授業内容ですから、生徒は数人しかいなかった、様に記憶しています。私が知っているのは、お茶の水大学の学生だった長崎出身の女子大生、立教大学の女子大生、それから、売れない(失礼!)オペラ歌手だった40歳代位の女性、数カ月でやめてしまったと思いますが菓子職人でフランスでの修業を目指していた20代半ばの男性、位でしょうか…。

実は、先日、その鷲尾フランス語塾のあった南スズさんの自宅を、30年振り位に訪れてみました。
勿論、南さんはもう亡くなっているとは思いながら、今はどうなっているのだろう?という郷愁に近い気持ちでの行動です。
驚いた事に、南さんの自宅は、そのまま残されていました!
表札は、もう他の方の名前にはなっていましたが、建物はほぼ往時の儘(まま)でした。
木造の平屋建て、実に古い建物なのですが、そのまま使って住んでいる人がいるのですねえ…。何とも嬉しくなりました。

若い頃は郷愁なんてものを感じませんから、同じ東京にいながらも、ずっと訪問していませんでしたが、まだあの自宅が残っていた事が、私の不義理な心を救ってくれた思いです。

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Z世代について

報道などで時々ですがZ世代という言葉を聞きます…。
飽く迄も、世代間の相違について、この様な名称を付けている便宜上の言葉かとは想像しますが、所謂(いわゆる)第一次ベビーブームの世代には団塊の世代、第二次ベビーブームの世代にも、新人類という名称が与えられました。
まあ、この様な言葉を用いて、端的に時代間の相違を表現する事は、一般論として、中々便利な手法かと想像されます。

さて、団塊も新人類(ゆとり教育が未完成期)も、私からすると、まあ、多少なりの差異は当然ながらあるにしても、それ以後の、ゆとり教育完成期以後の世代との大きな差異において、決定的な差異は、精神的限界と肉体的限界の問題です。

以前のブログにも書きましたが、精神的限界(=心理的限界?)と肉体的限界(生理的限界?)という言葉を知ったのは、私が高校生の頃でした。保健体育の教科書に載っていました。
人間の限界には、まず精神的限界が来て、その先に肉体的限界が来る、と…。
つまり、精神的限界の段階では、まだ人間の限界は来ていない。もっと先に進まないと、本当の自分の実力なんて分からないのだよ!という、学問からの表明でした。

この表明、必死に学問や運動に取り組んだ人ならば、誰でも経験している事実かと思うのですが、それが、ゆとり完成期以降の環境は「精神的限界を超える学問・運動は、しなくても良いですよー!」という立場に変化しているので、その時期以降の殆どの人が、この手の経験知を持たずに成長しているのかなあ、と私なんぞには確信されます。

世代間のズレが生じるのも、究極すれば、この「精神的限界の先に肉体的限界があるのだ! だから、ダメだと思っても、そこで諦めるな! まだ頑張れるぞ!」というゆとり教育完成以前の人間と、「精神的限界が来たー。もうこれ以上は、いいじゃん…。何で無理してその先に行かないとダメなの?」という完成以後の人間の差異なんだろうなあ、と確信されます。

多くの人間の能力なんて誤差でしょう…。だからこそ、この精神的限界と、肉体的限界の事実が、大きな差となって現実に表現されるのです。勿論、精神的限界を超えて努力をした人と言うのは、超えなかった人には見えなかった現実を、目の当たりにします。
だからこそ、「あー、あいつには敵わん」という言葉も生まれて来るのです。それは、当に芥川龍之介が、志賀直哉の文章における才能を、そう表現した様に!(芥川が温泉で発した言葉は「志賀?! ありゃ、敵わん」だった様な記憶がありますが…)

頭が痛くなり、果てはくらくらする程、何かを一心に考え、頭脳疲労を起こした経験のある人が、どれだけあるでしょうか?
立てない程に、もう下肢に力が入らず、その場に倒れ込んでしまった経験のある人が、どれだけあるでしょうか?
こういう事を書くと、必ず、その考えが体罰や暴力を助長するのだ!という主張をする人がいますが、本当でしょうか?

少なくとも私は、この精神的限界を何度か超えた経験を持ちますが、その場面では、体罰も暴力もありませんでした。
恐らくですが、大谷翔平選手も、イチロー選手も、利根川進さんも、湯川秀樹さんも、体罰も暴力もない環境で、きっと精神的限界を超えた努力をしたのだと、私には確信されます。

が、まあ、私の確信は個人的なものなので措(お)くとして、Z世代と呼ばれる世代の人などには、この精神的限界を越えた経験がない…、という着想を、再度記して置きます。

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いじめについて…再考

現在ロシアのウクライナへの侵略(領土拡幅)戦争が進行形です。この戦争をぼんやりと考えていて、不図思い付いたのは、いじめの構図も、この戦争と同じではないか?という事です。
勿論ロシアがいじめる側で、ウクライナがいじめられる側です。

大体が、いじめる側といじめられる側では、いじめる側が社会的だったり、肉体的(=軍事的)或いは金銭的に強者でしょう。
その強者にとって、何か気に入らない事が、弱者側(=いじめられる側)の何らかの行為によって、惹起されます。恐らく、この場合、初期の段階で、いじめる側は、小さいながらも、何等かの不快の表明をしているのが大抵でしょうが、いじめられる側はそれを無視するか、気が付かないで通過します…。
いじめる側は段階的に不快表明の強度を上げては行きますが、いじめられる側は、矢張り無視するか、気が付かないで進んで行く…。
その結果、到頭いじめる側は直接行動(=いじめる、戦争を起こす)に出る訳です…。

さて、ベトナム戦争もそうでしたが、いじめられる側が頑張れば頑張るほど、被害は大きくなります…。ベトナム戦争は約8年程度続いた様ですが、ベトナム本土では、悲しい出来事が沢山あったでしょう…。それは戦争後も続いていた筈です。
勿論アメリカでも、財政難は深刻な状態になった様です。
また、PTSDという新しい精神症状の病名が発明され、今ではその意味を変化させ、時には悪用されながらも、一般語の様相を呈して社会に流通される様にもなっています…。
併(しか)し、ベトナムの負債と比較すると、矢張りベトナムの方が遥かに甚大な被害を蒙(こうむ)ったと言えるでしょうか…。
なお、朝鮮戦争は約3年続きました…。一方、湾岸戦争は約半年で戦闘停止になっています。これら戦争は、被害との関係において、その様な差異があるのでしょうか?

さて、これを、いじめに転用すると、いじめる側も何らかの被害・負債を背負うにしても、いじめられる側も相当な被害・負債を負わなけらばならない、という事になります。

社会では、いじめるほうが悪い、という言葉が一般に使用されますが、それを言って何の解決策になるのでしょうか?
今、ロシアが悪い、と声を挙げた処で、ロシアの侵略が止まるでしょうか? ウクライナの安楽が齎(もたら)されるでしょうか?

約80年前には日本でも、治安維持法の拡大使用による赤狩り、現在でも警察が産む冤罪等が、国家権力によって行われていますが、これらは全ていじめ、と言えるでしょう。

伝え記された処(=伝記)によると、ソクラテスは多くのソフィストらの不興を買い、裁判で死刑が宣告され、彼の周囲が国外逃走の手筈を整えていたにも拘(かか)わらず、ソクラテスは「悪法でも法」という趣旨の信念を変えず、自ら毒杯をあおった、とされているでしょうか…。
また、ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えた処、裁判で、死を選ぶか、地動説を棄てるかの判断を迫られ、地動説を棄てた、と何かの本で読んだ事があります…。

ソクラテスもガリレオも、広義で見れば、いじめに遭っていたのです…。その解決策として、ソクラテスは死を選び、ガリレオは生を選んだ。
これは、どちらが良いとか、正しいとかの問題ではありません。単純に、いじめに際して、彼らは彼らなりの行動を取った、という事実があるだけに過ぎません。

さて、以前のブログで、あいだみつをの引用を以て、いじめの対応について、少し僭越かも知れぬ意見を書きましたが、ここでも同様の指摘を記したいと思います…。
ソクラテスを選ぶのか、ガリレオを選ぶのかは、各人の自由意思によるものでしょう。
但し、その結果を、先例となるこの2人から学ぶ必要はあるのかと、私には思われますが…。

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